時代に咲いた花 2019.04

澤田美喜(下)

混血孤児の救済こそ自らの天命と悟り
国を越え救済事業に邁進した波乱の半生

 日米開戦により、澤田家を取り巻く状況は一変します。米国帰りで外国人の知人も多かったことから、澤田家の人たちは親米派として目をつけられ、特高や憲兵に付きまとわれるようになったのです。
 疎開先の大磯の別荘は陸軍に接収され、美喜は娘を連れて夫の郷里、鳥取に移ります。ここで疎開婦人会長として600人ほどの婦人たちをまとめ、勤労奉仕の日々を送りました。自給自足の厳しい疎開生活を「人生にまたとない尊いもの」と感謝しつつも、戦況の悪化はひしひしと感じられました。美喜は鳥取で終戦を迎えますが、この戦争で3人の息子を戦地に送り、海軍の三男を失くします。
 東京に戻った美喜は、激しい空襲の爪あとを目の当たりにし、改めて敗戦国の惨めさを痛感させられました。それからの日本は「夢にも見なかった体験」をすることになるのです。
 1カ月後、連合国軍の進駐が始まり、GHQ(連合国軍最高司令部)の指導のもと、日本の非軍事化と民主化が推し進められます。その占領政策の一つが財閥の解体で、三菱本社も解散を余儀なくされ、企業を分割し、資産の大半が没収されてしまいます。
 都内の洋館が次々と接収されるなか、父が暮らす本郷の岩崎家本邸には情報部が置かれ、進駐軍との同居を強いられます。岩崎家の厳格な日常生活が、日夜問わない将校らの乱痴気騒ぎでかき乱されるのを、黙って見るほかありませんでした。麹町の澤田夫妻の自宅も諜報活動に携わる「サワダ・ハウス」として民間諜報局に接収され、夫の廉三は公職追放となったため、美喜が英語とフランス語を教えながら、大磯の別邸と東京の父の元を行き来する生活でした。
 家を焼かれ、食べ物もなく、焼け野原をさまよう人々。アメリカ兵に連れ添う若い日本女性たちの姿を見るたび、美喜は胸騒ぎを覚えました。果たして進駐から9カ月後、ラジオのニュースで日米混血児第一号の誕生が報じられたのです。
 ところが、報道はこれきり。社会問題化するのを怖れた進駐軍は、その後も増え続ける混血児のことが話題になるのを警戒し、報道を規制しました。

※続きは2019年4月号本誌にて。
readlink

関連記事

カテゴリー

ページ上部へ戻る