時代に咲いた花 2018.08

李 方子(下)

日本と韓国のふたつの国を祖国とし
夫の意志を継いで福祉の種を蒔いた

 最愛の我が子を失った李方子は、心の安らぎを求め、写経にいそしむ日々を送っていました。そこへさらなる苦難が襲い掛かります。大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生。これが朝鮮人の悲劇につながるとは誰が想像したでしょう。
 実家の梨本宮に身を寄せていた李垠と方子が麻布の邸宅に戻ると、衝撃的なニュースが伝えられます。
 朝鮮人が無差別に虐殺されている――東京を焼き尽くし、数万の人の命を奪った地震は、人心を乱し、秩序を崩壊させていました。「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「暴動を起こしている」といった流言飛語が乱れ飛び、惑わされた官憲や民間の自衛団が各地で武装し、在日朝鮮人の殺害に手を染めたのです。
 「国と血を超越した愛情と理解によって固く結ばれたと思っていたが、日本と朝鮮の間には、埋めることのできない深い溝が横たわっている」。危険を避け、宮内省に避難した李垠と方子は憤りと悲しみでいっぱいでした。
 大正15(1926)年は両国にとって節目の年となりました。4月25日に朝鮮王朝最後の皇帝純宗(垠の義母兄)が薨去、同年12月25日には大正天皇が崩御され、方子は朝鮮王朝五百年の終焉と、昭和の幕開けに立ち会います。垠が李王を継承したものの、日本皇族の一王家という微妙な立場に変わりなく、王妃に昇格し勲一等宝冠章を賜った方子も、日本の中の朝鮮人であり、朝鮮の中の日本人でした。
 帰朝すれば、日本人王妃を見る朝鮮王族や高官らの視線は鋭く、日本では朝鮮人による事件が起きるたびに、宮中で肩身の狭い思いをしていました。
 しかし、何より方子が気をもんでいたのは、李王家の血を絶やしてはならないということ。晋亡きあと流産が続き、いまだ後継ぎはいませんでした。
 翌年、ソウルで純宗皇帝の一年祭を終え帰国した垠と方子は、約1年におよぶ欧州諸国歴訪の旅に出ます。名目は垠の軍事視察でしたが、日本でも朝鮮でもないところへ行き、苦しみから逃れたい切羽詰った心境でした。
 独立国でない朝鮮を外国が国と認め、垠を「朝鮮の王」として遇するのではないかという懸念から、日本政府はなかなか渡航を許しませんでしたが、「王でなく個人の立場で行きたい」と垠が強く主張し、非公式の条件でようやく実現しました。

※続きは2018年8月号本誌にて。
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