時代に咲いた花 2018.07

李 方子(上)

日本の植民地化が進む朝鮮の皇太子に
愛の家庭を築く決意で嫁いだ皇族女性

 日本の皇族から朝鮮王朝最後の皇太子妃へ。日韓融和の美名のもと、政略結婚により李王家に嫁いだ梨本宮家の長女李方子。激動の歴史に翻弄されながら、韓国をもうひとつの「祖国」と呼んだ彼女は、朝鮮王朝五百年の終焉と日本の敗戦をどのような想いで見つめていたのでしょう。
 明治34(1901)年11月4日、方子は皇族として誕生しました。父・梨本宮守正王は「ヒゲの元帥」と親しまれた軍人で、母・伊都子は佐賀藩主から外交官へと転じた鍋島直大の次女、「皇族一の美人」と評判の人でした。
 日本が日清戦争の戦勝に沸いたのも束の間、露・仏・独の三国干渉を受けて臥薪嘗胆が叫ばれ、やがて日露戦争につながる国家意識の高揚した時代でした。子供らは童謡よりも軍歌を歌い、看護婦や兵隊ごっこの遊びが主で、活発な方子嬢は“勇敢な軍人ぶり”を見せたそうです。
 「子供に贅沢させるな」という鍋島家の家訓により、方子は厳しく躾けられました。皇族としての振る舞いはもちろん、学習院に入学してからも人力車ではなく侍女と徒歩で通学。皇族は特別待遇で成績は発表されず、掃除も免除されていましたが、家で率先して掃除をする母にならい、先生の目をぬすんで雑巾がけもしました。後年、独りで家を切り盛りしなければならなくなったとき、そんな母の厳しさに感謝することになります。
 東アジアをめぐる世界情勢は目まぐるしく変化していました。西洋列強の植民地主義に後れをとるまいと、東アジアへの侵略政策を進めていた日本は、清国とロシアの二大強国を相手にした戦争で勝利を収め、アジア唯一の西欧近代型帝国として君臨するようになります。明治38(1905)年には大韓帝国との間で第2次日韓協約を締結し、その外交権を剥奪。日本の統監府を置き、伊藤博文が初代韓国統監に就任しました。

※続きは2018年7月号本誌にて。
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