時代に咲いた花 2018.03

大石順教(上)

不慮の事件で両腕を失いながら口筆で絵を描き
尼僧になり身障者のための福祉活動に専心した

 体が不自由でも、心の障害者になるまいと自らを戒め、愛の実践に生きた女性がいます。明治時代に大阪中を震撼させた「堀江六人斬り」事件で唯一生き残った芸妓・妻吉。両腕を失いながら口で絵を描くことを覚え、のちに尼僧となり、身障者の心の母、慈母観音とも慕われた大石順教その人です
 明治21(1888)年3月14日、大阪道頓堀の「二葉ずし」に長女よね、のちの妻吉、大石順教が誕生します。母は維新当時、京都伏見で名の知れていた料亭の娘で、父は入婿でした。鳥羽・伏見の戦いを機に夫婦で大阪に移住し、鮨屋を営むようになります。
 家業の都合で、よねが4歳のときに預けられた俥屋の近所に、京舞・山村流の稽古場があったのは運命でしょう。最初は好奇心から覗いていたのが、いつのまにか手ほどきを受けるようになり、やがて舞台に上がって才能を開花させます。両親も遊芸師匠に仕込もうと決意し、わずか11歳で山村流の名取を許されると、17人の弟子を抱える“小さな師匠”は、町から町へと飛び回って稽古をつける、忙しくも充実した日々を送るようになります。
 転機は13歳のときに訪れます。偶然、よねの踊りを目にした舞の名手山村きみに才能を見込まれ、堀江遊郭に誘われたのです。
「本場で磨きをかけ、いずれ一本立ちできるように仕上げて見せましょう」。きみの口利きで堀江の山梅楼の主、中川万次郎の養女となったよねは、芸名を「妻吉」とし、西川流舞踊を習います。
 将来への期待に胸を躍らせるいっぽうで、華やかさの陰に人知れぬ苦しみのあることも知ります。廓という厳格な階級社会で、客商売の難しさを散々味わい、寝床で泣いて故郷を恋しがることもありました。しかし、芯の強い彼女は、踏みつけられた野の花が朝露にうなじをもたげるように、傷ついても立ち上がり、舞に精進するのでした。

※続きは2018年3月号本誌にて。
readlink

関連記事

カテゴリー

ページ上部へ戻る