時代に咲いた花 2017.10

パール・バック(下)

障害を持つ娘に人間の普遍的価値を教えられ
「人間はみな平等」と信じ平和運動に邁進した

 アメリカから1年ぶりに中国に戻ったパール・バックを待ち受けていたのは、抑圧からの解放を求める民衆の動乱でした。1927年3月24日、北伐途上の国民革命軍が南京に攻め入り、2日間にわたる暴動は、外国人を含む多数の命を奪いました。発砲音と怒声が響くなか、バック一家は知人の中国婦人に匿われ、かろうじて命拾いをしますが、家は荒らされ一切を失います。
 着の身着のまま日本の長崎・雲仙に逃れた家族は、改めて人生に思いを巡らせます。南京事件で死に直面したとき、何よりも心配したのは娘のことでした。
 それまでわが子の知的障害を憂い、悲しみにとらわれてきましたが、一番大切なのはキャロルの幸福です。そこで、親が自分中心の期待を捨て、子供をあるがままに受け入れないといけないと悟るのです。
 その後、親子はまだ情勢の定まらない中国に戻りますが、排外感情が渦巻くなか、いつ身に危険が迫るかしれない不安な暮らしでした。そんな折、南京大学に勤めていた夫ロッシングが研究助成を受けるためアメリカに一時帰国することになり、この機にパールも同行し、キャロルを託せる施設を探すことにしました。知能は劣っていても豊かな感受性を持つ娘が、彼女なりの才能を発揮し、仲間として受け入れられる環境で、安心して生涯暮らして欲しい。そう願っての苦渋の決断でした。
 いくつもの施設を回り、慎重に吟味した末に、ニュージャージー州ヴァインランドにある特殊学校を選びました。設備は質素ながら教育課程が整っており、何より子供たちが個性ある人間として扱われていたことに安心しました。
 それでも娘との別れは身を引き裂かれるようで、「ほとんど死に等しい」心境だったといいます。以降60年以上にわたり、キャロルはこの施設で平安な日々を送るのです。
 障害のある娘を持つ人生を受容するまで、長い時間を要しました。しかし、「人はすべて人間として平等であり、同じ権利を持っていることをはっきり教えてくれたのは、他ならぬ娘でした」と後述しているように、キャロルの存在なくして、人間の普遍性、尊厳性についての深い認識は育たなかったでしょう。娘への愛と幸せを願う母性は、やがて広く世界の不幸な子供たちへと向けられ、救済運動に発展していくのです。

※続きは2017年10月号本誌にて。
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