時代に咲いた花 2017.04

奥村五百子(下)

北清事変を機に女性も国のために働くべきと
遺家族救援を呼びかけ愛国婦人会を設立した

 奥村五百子が郷土唐津の開発のために東奔西走していた頃、列強のアジア侵略を警戒する日本は、朝鮮への影響力をめぐり清との対立を深め、ついに日清戦争が勃発。これに勝利した日本は清との間で下関条約を結び、大陸進出の足場を築きました。
 そうした時代に、五百子は早くから朝鮮で布教活動をしていた兄の奥村円心と共に、明治30(1897)年、兄の住む全羅南道の光州に入ります。釜山が日本の専管居留地になった明治10(1877)年、円心は明治政府の依頼を受けた東本願寺から朝鮮布教を依嘱されて半島に渡り、近代化を主張する現地の開化派朝鮮人たちとも積極的に交流していました。
 兄妹は光州の小さな田舎町に根拠地を定め、現地に骨を埋める覚悟で日本村の建設に着手します。兄の布教活動を助けるいっぽうで、五百子は農業教育を始めました。朝鮮の人々に養蚕や米作の技術を教え、彼らの生活を豊かにしようと考えたのです。大陸進出を武力ではなく、産業・文化の面から友好的に行なうべきだとする日本の支配層もこの計画に共感し、貴族院議長の近衛篤麿と外務大臣・大隈重信が資金援助し、翌31年に奥村実業学校が開校しました。
 次女の光子とその夫も合流して母親を支えますが、運営は思うようにいきませんでした。日々の暮らしに追われる農民たちは、「給料を払ってくれるなら行きますが」と、学校に来てくれません。巡回教授をしたり、昼食を提供して誘ったりと学生集めに苦慮しました。
 

※続きは2017年4月号本誌にて。
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