時代に咲いた花 2017.03

奥村五百子(上)

幕末の唐津で尊皇攘夷運動に参加し
明治には郷土開発に尽力した女丈夫

 幕末から明治末期まで、激動する世の中を疾風のごとく駆け抜けた女性社会運動家がいます。奥村五百子(おくむらいおこ)──唐津を拠点に幕末の尊王攘夷運動に関わり、明治初期の自由民権運動、郷土の開発事業に尽力。後半生は海を渡り、朝鮮半島の農業指導と学校建設を試み、晩年には婦人たちを結集して愛国婦人会を創設するなど、その活躍ぶりは目覚ましいものでした。
 
 奥村五百子は弘化2(1845)年5月3日、今の佐賀県唐津市に生まれました。生家の釜山海高徳寺(ぷさんかいこうとくじ)は朝鮮と縁の深い寺で、本願寺の教如(きょうにょ)上人に帰依した奥村掃部介(おくむらかもんすけ・法名浄信)が海外布教を志して朝鮮に渡り、天正13(1585)年に釜山に建立したのがその始まり。
 文禄・慶長の役で日本に引き揚げた浄信は、唐津城下の中町に新たに寺を建て釜山海高徳寺と称しました。五百子の父奥村了寛は、左大臣二条治孝の孫に当たりますが、幼くして寺の養子となり跡を継いでいました。
 五百子は男勝りな気性で、母が「これでは嫁のもらい手がない」と嘆くほど。正義感が人一倍強く、弱い者いじめをする男の子を懲らしめて、大目玉を食らったこともありました。また、草書体で「寿」という字を半紙いっぱいに書き、最後の点を打つ余白がないと机の上に堂々と打ってみせ、とがめられても「字は縮こまらない様のびのび書けとおっしゃったではないか」と言い返した逸話があります。
 精力盛んなお転婆娘でしたが、女子のたしなみとされた舞踊や裁縫もそつなくこなすので誰も文句を言えません。14歳の時には憧れの京都・大坂見たさに家出を敢行、大坂に暮らす叔父の家に2カ月滞在しています。上方の活気に触れ、多くの知見を得た少女は、広い外の世界に目を向けるようになるのです。
 

※続きは2017年3月号本誌にて。
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