時代に咲いた花 2016.11

土光登美(上)

「行革の鬼」と言われた土光敏夫の原点は
70歳にして女学校を創立した母の姿だった

 遠く富士山も望める横浜鶴見の高台にある橘学苑。緑豊かな敷地のなかで、ひときわ威厳を放つ大きな石碑が本館前に堂々と鎮座しています。
 正しきものは強くあれ──そこに刻まれているのは、日本が未曾有の戦争へと突き進んでいくなか、70歳にして女学校を設立した土光登美の
信条です。偉人の陰に偉大な母ありという言葉の通り、その息子、土光敏夫も戦後復興に命を賭け、国家の再建、社会の繁栄のために力を尽くした、昭和を代表するリーダーでした。
 「ミスター合理化」「行政改革の鬼」などと呼ばれ、エンジニアとして石川島重工業を発展させ 、経営危機の東芝を再建し、経団連会長を歴任した経済界の大物。そんな彼の精神に楔くさびのように打ち込まれていたのは、「個人は質素に、社会は豊かに」という母の言葉でした。
 土光登美(旧姓伏見)は明治4年、岡山県御野郡大野村(現岡山市北区)に生まれました。進取の気性に富んだ伏見家は率先して開墾事業に取り組み、岡山の発展に尽力したといわれています。
 備前法華といわれるように岡山は古くから日蓮宗が栄えた土地で、法華経の篤信者だった父義三郎にならい、登美も6歳の頃から経を唱え始めました。負けん気が強く、経文を覚えられないと悔しがって布団をかぶって必死に覚え、「方便品」と「如来寿量品」の、合わせて7千字もある長大な経文をそらんじてみせたというから、並みの根性ではありません。
 また、父が心酔していた西郷隆盛をはじめ、吉田松陰、儒学者の中江藤樹に憧れ、命を賭けても信念をまげない生き方に強い影響を受けました。
 登美は当時の女子としては珍しく小学校を卒業しましたが、飽き足らず、東京遊学を夢見ていました。ところがいざ荷物をまとめ、家出の機会を狙うと、「父母の嘆く姿が思い浮かび、先延しにするうちに行き損ねた」と後年明かしています。

※続きは2016年11月号本誌にて。
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