時代に咲いた花 2016.10

吉本せい(下)

女社長として獅子奮迅の活躍をし
漫才を庶民の笑いの中心に育てた

 わずか12年の間に28軒の寄席を傘下に収めた吉本興行部。吉本せいは、これからは女主人として亡き夫・泰三が残した財産を守り、寄席を1軒たりとも失うまいと心に固く誓います。「所詮は女」と侮られるのは、彼女の意地とプライドが許しませんでした。片腕となって働く実弟の正之助に加え、その8歳年下の弟の弘高に東京の仕事を一任し、組織の中核を身内で固めます。
 気がつけば、世の中は大きく変わろうとしていました。前年の関東大震災の後、東京では急速に都市化が進み、服装も和装に代わって洋装が広く普及しました。「文化」という言葉が流行し、文化人、文化住宅、文化鍋に文化包丁と、「文化」を冠するものがモダンで新式とされ、近代的なアパートに住むのが会社員、いわゆるサラリーマンたちの憧れでした。
 日本人の風俗も生活スタイルもこれだけ変化しているのに、演芸界は旧態依然のままで良いのだろうか……、せいは吉本の行く末を思いあぐねていました。
 寄席の看板といえば、落語です。万歳などの色物芸人がいくら面白がられても、しょせんは端役であって、伝統と格式を誇る落語家こそが本物。そう自負する気位の高い噺家たちですから、芸人同士の折衝には神経を使わなければなりませんでした。いっぽうで贔屓の芸人とそうでない者との待遇は、天地の差があったとも言われます。
 踊りや歌を交えた音曲中心の万歳は、落語のつなぎの芸とされていました。ところが昭和に入り、それまでの万歳スタイルを捨て、まったく新しい芸を生んだのが昭和5(1930)年に誕生した横山エンタツ・花菱アチャコのコンビでした。
 羽織袴と扇子の代わりに背広姿で舞台に立ち、会話の中で「きみ」「ぼく」と呼ぶ。聴衆の身近にある日常的な話題を取り上げ、もっぱら話芸で勝負する常識破りの芸風は、新しい時代の客層にマッチしていました。
 同年、吉本は周囲の非難にも屈せず、千日前の南陽館を万歳の専門館とし、格安の“十銭万歳”を始めて大成功。万歳人気は落語を超える勢いで高まり、万歳に転向する落語家も出てきたほどです。

※続きは2016年10月号本誌にて。
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