時代に咲いた花 2016.04

広岡浅子(下)

炭鉱経営に銀行設立、女性実業家として名を馳せ
晩年は女子大学の創設と社会活動にまい進した

加島屋の再興に奔走する広岡浅子は、次に新たな事業として炭鉱ビジネスに挑みます。後に「黒いダイヤ」と呼ばれるようになる石炭は、産業を支える重要な資源として需要が急速に高まっていました。なかでも福岡県の筑豊炭田は日本最大の採炭地として活気づきます。
 「これからの日本には米よりも必要なもの」──石炭の将来性をいち早く見抜いた浅子は明治17(1884)年、石炭販売の代理店を開業し、上海や香港への輸出を狙いました。
 ところが、当時はまだ鉄道がなく、運搬には船を利用しなければなりませんでした。そのため炭鉱から輸出港までの運搬費が予想以上にかさみ、採算が取
れなくなってしまいます。そこで明治19(1886)年、潤野炭鉱を買収、炭鉱経営に乗り出して世間をあっと言わせました。
 当たれば莫大な利益をもたらす反面、リスクも高いのが炭鉱。実際、経営は順風満帆とはいかず、大蔵卿・松方正義が行なったデフレ政策に世界的不況、さ
らに生産過多による価格の暴落に苦しめられ、肝心の採掘も断層に阻まれて休鉱を余儀なくされるのです。

 炭鉱を手放す道もあったはずですが、浅子は諦めませんでした。「周りの炭鉱が産出しているのに、ここだけ出ないという道理はない」と、反対の声を押し
切って再開に着手したのは明治28(1895)年。相当な胆力を要する決断だったに違いありませんが、浅子は常識を覆す大胆な行動に出ます。自ら炭鉱へ乗り込んで鉱夫たちと生活を共にし、ときには坑内にまで入って一同を励ましたのです。
 炭鉱現場は屈強な男たちの集まり。万一に備えて懐に護身用のピストルを忍ばせたというから、よほどの覚悟だったのでしょう。地元の人はそんな浅子を未
亡人と思い込み、「後家さんが炭鉱を始めた」と噂しました。夫のいる女性が表で働くだけでも衝撃的でしたが、男性もためらうような事業に手を出したので、
狂気扱いされることもあったといいます。
 一念岩をも通す。浅子の情熱が運を引き寄せたのか、ついに鉱脈にぶつかり、石炭の産出量が急増。再開発から2年で優良炭鉱に転じ、収益をもたらすようになりました。
 
※続きは2016年4月号本誌にて。
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