時代に咲いた花 2016.03

広岡浅子(上)

京都の名家に生まれ大坂の豪商に嫁いだ令嬢
家勢が傾いた婚家を救わんと実業界に身を投じる

 「幼にしては父母に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」のが婦徳とされた時代。自流を貫き、「一代の女傑」と称された女性がいます。その名は広岡浅子。江戸から明治、大正の激動期に異色の女性実業家、教育者として大きな足跡を残しました。
 嘉永2(1849)年、幕末の京都。浅子は出水三井家(後の小石川三井家)の第六代当主・高たかます益の四女として誕生します。幼名は照(てる)。三井家は小売業の呉服店と幕府の公金を扱う「為替御用」を主軸とした両替店(金融業)として繁栄した豪商で、のちの三井財閥となります。
 浅子は2歳(数え年、以下同様)の時に、義妹として七代当主・高喜のもとに迎え入れられますが、この時すでに将来の結婚相手が決まっていました。浅子が著書『一週一信』で「まだ片言も云いはじめぬ間に、早くも大坂の広岡家の許嫁の身となりました」と述べているように、当初から豪商への嫁入りが前提でした。

 その頃、日本は大きな転換期を迎えていました。浅子が5歳の時にペリー提督率いる黒船艦隊が浦賀に来航し、200年続いた鎖国に終止符が打たれます。さらに安政5(1858年)年に天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約が締結されたことで、開国派と攘夷派の抗争が激化していくのです。
 不穏な空気が漂う中、幼少期の浅子は裕福な商家の令嬢として何不自由なく育ちます。商家に嫁ぐ女性として、三味線・琴・習字・裁縫といった花嫁修業を積む浅子でしたが、「稽古はみな嫌い」で丁稚相手に相撲をとったり木登りに興じたりするお転婆娘でした。
 学問への興味も人一倍強く、男兄弟の傍らで四書五経の素読に耳を傾け、書物を借りては夢中で読んだそうです。しかし「女子に学問は不要」という商家のしきたりは強く、13歳の頃には一切の読書を禁じられてしまいます。

※続きは2016年3月号本誌にて。
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