時代に咲いた花 2015.12

四ケ所ヨシ(下)

ジャワ島の日本女性を看護婦に仕立てて無事帰国させ
戦後は老人福祉施設の建設、運営に東奔西走
老人福祉法の公布前に特別養護老人ホームを開設

ジャワ島へ赴任し
病院経営に当たる

 
 日中戦争の従軍看護婦として大活躍したヨシが、夫の郷里である福岡県三井郡に帰ると、村を上げて歓待されました。伯母に預けていた子供たちは、「お母ちゃんは偉い看護婦さん」と聞かされ、元気いっぱいに成長していました。
 ところが、平穏な日々は長く続きませんでした。4カ月後には再び陸軍省に呼び出されたのです。昭和16(1941)年
12月8日、日本がハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争の火蓋が切られた直後でした。
 請われたのはインドネシアのジャワ島への従軍。もう外地へは行くまいと思っていたのに、「ジャワ」と聞いて、ふと子供時代に口ずさんだ流行歌『流浪の旅』の一節「北はシベリア 南はジャワよ」が脳裏をよぎり、ついつい承諾してしまったというのだから、彼女らしいです。
 その頃、日本軍は破竹の勢いで西太平洋と東南アジアの主要地域から欧米の勢力を駆逐し、300年間オランダの植民地下であったジャワ島を制圧していました。翌年5月、ヨシを隊長に看護婦32名、タイピスト15名、事務員3名で編成された一六〇二部隊四ケ所隊が南方に向けて出発。看護婦たちは各地方に分散し、ヨシは監督兼婦長としてジャカルタ病院の経営を全面的に任されます。

戦局が悪化していくなか
女性帰国の全権を託され

 男社会を渡り歩くには侮られては事がうまく運びません。髪を短く刈り、男言葉を使い、軍服姿で歩き回るようになったのも、戦地で生きていく知恵だったのでしょう。歯に衣着せぬ物言いと生来の闊達さ、細やかな気配りで官民共に多数の知己を得て、島内の状況や人間関係、戦局の情報に通じるようになりました。
 耳に入る内容は楽観できるものではなく、ミッドウェー海戦の敗北に端を発し、早くも戦局に陰りが見え始めていました。米軍の反攻作戦により日本軍は南方沖で苦戦を強いられ、昭和20年にはマニラが陥落、硫黄島で玉砕します。ラバウルから次々と運ばれてくる負傷兵を目の当たりにし、懸念は募るいっぽうでした。

※続きは2015年12月号本誌にて。
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