時代に咲いた花 2015.10

四ケ所ヨシ(上)

昭和の初め、ブラジル移民病院の看護婦になり
戦時中は従軍看護婦として活躍
戦後、老人保健福祉事業の道を切り開いた

 明治の近代化から2度の世界大戦を経て、戦後の日本は急激な経済復興を果たし、世界に類を見ない大転換を遂げました。同時代を生きた人々もまた、歴史の大きなうねりの中で、激動の個人史を刻んできました。
 四ケ所ヨシの85年にわたる足跡も、日本の戦前・戦後の歩みに沿った波乱万丈なものでした。従軍看護婦として戦時下を生き抜き、敗戦後は老人保健福祉事業に邁進し、社会福祉法人芙蓉会を設立。激動の時代を生きた女史の人生は、果たしてどんなものだったのでしょう。

北海道の田舎に生まれ
家族で樺太へ移住する

 四ケ所ヨシ(旧姓古村)は明治43(1910)年3月30日、日本海に面した北海道増毛で父・古村兼吉、母・スエノの三女として誕生します。ところが、両親はまもなく離婚、スエノは2人の娘を婚家に残し、乳飲み子のヨシだけ連れて札幌の長姉を頼り、同地で白幡小三郎と再婚しました。
 長姉の夫・中島達三郎は早稲田大学の一期生で、漁業関連の商売を手がけていました。樺太の中島回漕店もその一つで、スエノと小三郎は義兄の代理人として西海岸本斗町の店を任されることになり、親子3人で樺太(現・サハリン)へ渡ります。
 樺太は古くからアイヌなど先住民が住んでいましたが、日露戦争の勝利で、北緯50度の北がロシア領、南が日本領と定められていました。政府は開拓民を誘致するため支援策を次々と打ち出し、全国から集った移住者の手で、農業、林業、漁業、鉱業などの産業が発展します。

男勝りの女の子になり
札幌の女学校に入学

 大正5(1916)年の春、6歳の誕生日を迎えたヨシは本斗尋常小学校へ入学。一人っ子だったため可愛がられ、きかん気で弱いものいじめを好まず、意地悪な男の子たちに真っ向から対抗する逞しい女の子でした。
 賑わう町中を縦横無尽に駆けまわる開拓民の子供たちは、身近に異国の存在を感じることもありました。ロシア革命が勃発した際には、浜辺にロシア人の水死体が打ち上げられ、貝殻を拾いにきたヨシは、無残な光景を目撃し「怖いロシア」の印象を子供心に刻んだといいます。
 「ヨシちゃん、札幌の女学校へ行ってみない?」――卒業後の娘の進路を思いあぐねていた母は、札幌の伯母夫婦のもとで学校に通わせようと考え、ヨシは二つ返事で応じます。珍しいものがあふれ、ハイカラな都会暮らしができる札幌は、辺境の地で生きる若者にとって、憧れの場所でした。

※続きは2015年10月号本誌にて。
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