友好の橋 2020.01

ドイツ連邦共和国
Federal Republic of Germany

鎖国・日本の文化を欧州に伝えたケンペル
長崎の出島に商館医として滞在
     
 長崎県の出島には、オランダ商館医として来日したシーボルトによる記念碑が建てられています。この碑には、2人の商館医ケンペルとツュンベリーの名前が刻まれ、3人を合わせて「出島の三学者」と呼ばれています。3人は、鎖国時代の日本に学問や文化を持ち込むと同時に、帰国後には世界に日本を知らせたことでも知られています。

★言語が堪能で好奇心旺盛

 最初に来日したのが、ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルでした。博物学者でもあり、言語が堪能で非常に好奇心旺盛な人物でした。幼少期から、哲学、歴史、言語、植物学、医学などをヨーロッパ各地で学んでいます。32歳の時にスウェーデン国王よりロシアとペルシア(現在のイラン)への使節団に医師兼秘書として随行するよう命じられ、以後、インド、タイを経由して1690年に来日、約2年間、出島に滞在しました。
 帰国後、医師として開業する傍ら執筆に取り組み、1712年『廻国奇観』を世に送り出します。数々の挿絵が用いられ、日本の文化、風俗が紹介されています。また、300種以上の植物と同時に鍼灸など、東洋医療についても触れられています。
 同時期に「今日の日本」という原稿の執筆にも取り組んでいましたが、世に出る前に亡くなります。死後、イギリスの「大英博物館の父」とも言われる収集家ハンス・スローンの元に渡り、1727年、ロンドンで『日本誌』として出版されました。すぐに様々な言語に翻訳され、後のジャポニスムの流れを作り出す素地となりました。『日本誌』は鎖国当時の日本を知りうる文献としては初めて、体系的、学術的にまとめられた文献として以後数百年間にわたり読み続けられました。1823年に来日したシーボルトも、53年に来航したペリーも『日本誌』を携えていました。

★八代将軍、徳川綱吉に謁見

 ケンペルは滞在中に2度、江戸参府を経験し、5代将軍、徳川綱吉に謁見しています。将軍は数時間にわたりケンペルにたくさんの質問や注文をしたと言われ、踊りやバラード曲まで披露したようです。一人で歌うケンペルの様子が挿絵として残っています。
 今のような通信手段がない時代に、日本はケンペルをはじめヨーロッパの人々にどのように映ったのでしょうか。ケンペルの膨大な資料からは彼の探究心の強さと同時に、初めて遭遇した時の初々しい感動のようなものが伝わってきます。

※詳細は2020年01月号本誌にて。
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