友好の橋 2019.11

アメリカ合衆国
United States of America

米に留学、技術者として功績残した松平忠厚
ブルックリン橋建設、鉄道敷設などに貢献

 幕末、明治時代、たくさんの留学生たちが海を渡り、新しい国づくりに貢献しました。その中に幕末に開国を主導した上田藩主松平忠固公の子息らもいました。兄の忠礼と異母弟の忠厚は、1872年に各々が23歳、21歳の時に渡米。私費留学生としてニュージャージー州のラトガース大学で学びました。

★アメリカ人女性と結婚

 ラトガース大学は1766年に創立された全米で8番目に古い歴史を持つ名門です。全米州立大学のうちアイビーリーグと同質の教育を受けられるパブリック・アイビーの一校として知られています。
 まずは付属のグラマースクールで英語を学び、後に大学に進学。忠礼は理学部、忠厚は工学部に学びました。卒業後、忠礼は帰国し外務省に勤務、後の華族令で子爵になっています。ところが、忠厚は帰国を拒否。アメリカ人女性と結婚し、アメリカで土木工学技師として働くことを選択しました。当然この決断に家族は大反対で、彼は勘当されてしまいます。
 忠厚は卒業後、ニューヨークの建設会社に一旦入社しますが、実力を悟りウースター大学に再度聴講生として学んだ後、マンハッタン高架鉄道会社に土木技師として就職します。当時ニューヨークではブルックリン吊り橋架設プロジェクトが進行しており、この会社も参加していました。そして忠厚はプロジェクトに設計者として関わるのでした。
 ブルックリン橋といえば、マンハッタンの南端に位置し、イースト川下流にかかる三つの橋の中の一つです。当時は世界で最長の吊り橋でした。1964年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に認定されています。

★日本人初の公職者に

 忠厚はその後、ユニオン・パシフィック鉄道から依頼を受け測量士として転職し、「大西部時代」にネブラスカ州から太平洋岸のオレゴン州まで鉄道を敷設。1884年にはペンシルベニア州ブラッドフォード市の公式エンジニアに任命され、日本人初の公職者となります。その後結核を患い、コロラド州デンバーに移り、そこで88年、37歳の若さで亡くなりました。
 ニューヨークに架かるブルックリン橋の陰にこのような日本人青年のドラマがあったとは驚きです。忠厚は、新天地で一から挑戦し、大きな功績を残しました。そのたくましい開拓精神に感動を覚えます。

※詳細は2019年11月号本誌にて。
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