友好の橋 2019.08

イタリア共和国
Italian Republic

日伊を結んだ柴田剛中とアルミニヨンの友情
修好通商条約の締結に尽力、日本の近代化に貢献

 日本の近代化を支えた主要産業の一つが絹、生糸産業であったことはご存知の通りです。一方、ヨーロッパで生糸生産といえば、北イタリア。しかし、1840年代から50年代にかけて病気が流行り、蚕が死滅、北イタリアの生糸産業は大打撃を受けました。早急に良質な蚕の卵(蚕種)を輸入する必要に迫られたイタリアは、日本に目をつけます。

★パリで意気投合
 ヴィットリオ・アルミニヨンという人物を全権とする使節団が65年、皇帝の命を受けて日本と中国との通商条約締結のため、ナポリを出発します。
 アルミニヨンは出航する前に、日本初となる幕府の横須賀製鉄所建設交渉でパリ滞在中だった外国奉行、柴田日向守剛中を訪ねて根回しすることを怠りませんでした。イタリアの絹糸産業の危機的状況を説明し、日本の協力が必要であることを率直に伝えました。当時ヨーロッパで流行っていたジャポニズムも後押しし、彼らは出会った初日から1時間も話し込むほど意気投合したのでした。
 アルミニヨンは66年に来日。日本は当時、列強との間で結んだ不平等条約の改定に心血を注いでおり、条約締結に対して非常に神経質になっていました。アルミニヨンは、パリ以来の友、柴田について「再会できたことを喜ぶとともに、パリで論じたと同じ問題について再び話し合うことができるのを満足に思う」と記しています。そして同年、日伊修好通商条約の締結に至るのです。

★帰国後、日本見聞記を出版
 調印式に同席した柴田は、「貴殿は我が国の置かれている困難な状況をよく認識せられ、われわれの譲与しうる以上のことを要求されなかった。我々はこのことに深く感謝している。貴殿の誠意ある態度は、今後両国間には常に協調関係がありうることを我等に確約するものである」と述べたそうです。
 幕末から明治初期へと、日本とイタリアの貿易関係はピークに達します。60年代後半、蚕種の輸出額は日本の輸出総額の23%を占める年もあり、そのおよそ7、8割がイタリア市場に流れたと言われています。この貿易関係は、養蚕製糸業に依存するイタリア経済を支えると同時に、日本が近代化に必要としていた莫大な資金の調達を可能にしました。
 アルミニヨンは無事条約を締結し帰国すると、69年に日本見聞記を出版しています。そこからは、彼が当時の日本をいかに好意的に見ていたかが窺えます。

※詳細は2019年8月号本誌にて。
readlink

関連記事

カテゴリー

ページ上部へ戻る