友好の橋 2019.07

大韓民国
Republic of Korea

朝鮮外交の中心的役割担った雨森芳洲
江戸中期の朝鮮通信使に2度随行

 江戸中期に対馬藩に仕え、朝鮮外交の中心的役割を担った雨森芳洲。『交隣提醒』は、雨森が長年の朝鮮との外交、貿易に関わる最前線での経験をまとめ上げた、朝鮮外交指針が記された書物です。

★若いころより秀才と謳われる
 1592年から豊臣秀吉の死で終焉を迎えた文禄・慶長の役で、日朝関係はズタズタに崩れてしまいました。秀吉の後、実権を握った徳川家康は、朝鮮貿易で利を得ていた対馬藩の強い要望も後押しし、関係改善を願っていました。そこで行なわれたのが「朝鮮通信使」という外国使節団の派遣でした。
 江戸期の朝鮮通信使は、1607年からおよそ200年間にわたり計12回、300人から500人の大使節団が韓国の釜山から江戸までを半年以上かけて移動するものでした。
 雨森芳洲は現在の滋賀県長浜市に生まれた江戸時代中期の儒学者で、若いころより秀才と謳われていました。1698年に初めて朝鮮にわたり、そこで朝鮮語を習得。自らの職務を果たすには言語の習得が不可欠であると感じ、「命を5年縮める覚悟で昼夜油断なく勤めた」と言われています。朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集に協力し、明治期に至るまで朝鮮語の入門書となった『交隣須知』も作成しています。
 帰国後、通信使に2回随行しています。1711年、6代将軍、徳川家宣の就任を祝った通信使と、19年、8代将軍徳川吉宗の就任を祝う通信使で、中心的な役割を果たしています。雨森は通訳を介さずに意見交換ができたため、江戸幕府と朝鮮の間に立って、難しい問題をまとめ上げたと言われています。

★ユネスコ「世界の記憶」に登録
 朝鮮通信使は外国との交わりが少なかった江戸時代の人々にとって、まさにオリンピックのような大イベントでした。日本各地で趣向を凝らしたおもてなしをするなど、学問的にも、芸術的にも、文化的にも様々な面で交流を促し、冷え切った二国間の国民感情を和らげ、回復させていったのです。
 朝鮮使節団の中には公の記録係がいて、旅の記録が詳細に残されています。雨森芳洲も、記録を大変重要視した人物であったため、多くの記録、書籍が残されています。そうした日韓交流の歴史に関する資料は2017年10月、「朝鮮通信使に関する記録─17世紀〜19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」と
してユネスコ「世界の記憶」に登録されました。

※詳細は2019年7月号本誌にて。
readlink

関連記事

カテゴリー

ページ上部へ戻る