友好の橋 2018.09

フランス共和国
French Republic

戦前、華やかな社交界で活躍した「バロン薩摩」
芸術家支援と国際交流に私財を投じる

 戦前の華やかなフランス社交界で「バロン薩摩」と呼ばれ、芸術支援と国際交流に莫大な資金と熱意を注いだ薩摩治郎八。彼が初めてヨーロッパに渡ったのは1920年、19歳の時でした。
 オックスフォード大学でギリシャ文学、演劇、ロシア舞踊に熱中。23年にパリに移り住むや、洗練されたスタイルと巨大な財力で「東洋の貴公子」としてパリ社交界の話題をさらったのです。当時パリで活躍していた画家の藤田嗣治ら日本人芸術家たちを支援し、美術や音楽、演劇活動など、文化後援に惜しみなく私財を投じました。

★祖父は「明治の木綿王」、生家は大豪邸

 パリに滞在した30年間で費やした金額は現在の値でおよそ600億円。それを可能にしたのが実家の財力で、父方の祖父は一代で巨富を築き上げた「明治の木綿王」、母方の祖父は日本の毛織物産業の創始者だったのです。ですから、神田駿河台の生家は敷地1万数千坪で、地下のワイン貯蔵庫にはフランスから直送の樽がずらりと並ぶ大豪邸でした。
 爵位はなかったにもかかわらず、治郎八が「バロン薩摩」と呼ばれたのは、お金持ちであると同時に教養があったからだとも言われています。実際、日本人芸術家たちのパトロンとして振る舞うかたわら、交友範囲は広く、詩人のジャン・コクトーらとも親しくしていました。

★日本館の建設資金をポンと全額支払う

 次郎八が終生誇りに感じていたのがパリの南郊にある国際大学都市に「日本館」を建てたことです。第一次世界大戦後、疲弊したパリの復興計画の一環として計画された国際大学都市は、東京ドーム7個分の敷地に学生、研究者、芸術家向けの寮やサービス施設、図書館、シアターなどの40の施設が建ち並ぶ学生寮街です。
 地上7階、地下1階、60室という堂々たる日本館は、経済的余裕がなかった政府になりかわり、治郎八が建設資金(現在の金額で約42億円)をポンと支払って建てられたのでした。これにより、治郎八はフランス政府から勲章を授けられています。 
 30年に及ぶヨーロッパ生活の末、戦後50歳で帰国してみると、実家は跡形もなく消えていました。一転して無一文となった治郎八は執筆活動などで生活費を稼ぎ、日本とパリの友好親善に努めました。パリの社交界で注目を浴び、芸術支援と国際交流に貢献した規格外の人生は75年で生涯を閉じたのです。

※詳細は2018年9月号本誌にて。
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