友好の橋 2018.08

台湾
Taiwan

未開の大地で一気に近代化を推し進めた後藤新平
インフラ整備、殖産興業、教育などの拡充を8年で達成

 台湾が世界で1、2を争う親日国であることは有名ですが、そのルーツは日清戦争(1894〜95)後の半世紀に及ぶ台湾統治にあります。下関条約で日本が清国から割譲を受けた当時の台湾は、近代的な教育制度はなく、識字率は低く、衛生状態も悪く、さまざまな風土病やアヘンが蔓延していました。

★現地の実情を科学的に調査し対策とる

 どこから手をつけていいのか分らかないこの状況から一気に近代化を推し進めたのが、台湾総督府の民政局長に就任した後藤新平です。「台湾を日本の基準で統治しようとすることは、タイの目をヒラメに移植するのと同じで不自然である」と、まず実情を科学的に調査し、それに応じた対策をとりました。
 就任するとすぐに、清国統治時代には未完に終わっていた土地、人口調査事業に取り組み、全土の耕地面積、地形が確定され、地租徴収の基盤が整えられました。鉄道、道路、港、飛行場の建設、電話網などのインフラ、水力・火力発電所をつくり、工業発展のための基盤を整備。台湾銀行の設立、通貨の統一などで金融と商取引を促進したのです。
 衛生面においては、予防接種の義務化、鉄筋コンクリートの上下水道を進めて風土病の蔓延を抑えました。アヘン漸禁策を行ない、アヘン患者は徐々に減少。教育の拡充を進め、統治終了前年の1944年時点で学校の数は、国民学校1099校、実業・師範学校122校、専門学校5校、高等学校1校、帝国大学予科1校、帝国大学1校。日本への留学生は20万人に達しました。

★30年かかるとされた自立を7年で達成

 農業の分野では、米と砂糖の2大産業に力を入れました。総督府の技師、八田與一が10年余りをかけて建設したダムによって、米の増産を実現。製糖業においては、農学者・新渡戸稲造をアメリカから呼び寄せて近代化を計りました。2大産業の飛躍的な発展によって、当初、30年かかると予想された財政的自立を7年目で達成したのです。
 こうして台湾の開発・発展に寄与した後藤新平は、いまも「近代化の父」と呼ばれています。台湾を去った後、後藤は満州鉄道総裁、さらに内務大臣・復興院総裁として関東大震災によって大被害に遭った首都・東京の再生に全力を尽くしました。
 「金を残して死ぬものは下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上」と語った後藤新平は、祖国の近代化のために人生を捧げた、典型的な明治人の生き方といえるでしょう。

※詳細は2018年8月号本誌にて。
readlink

関連記事

カテゴリー

ページ上部へ戻る