友好の橋 2018.01

オランダ王国 Kingdom of the Netherlands

シーボルトの目となり活躍した絵師・川原慶賀
美しい彩色図版で未知の国であった日本を広く世界に知らしめる

 江戸時代に長崎・出島のオランダ商館専属医師として来日したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796─1866年)は、日本に西洋医学を伝えるとともに、当時まだ未知の国であった日本を広く世界に知らせた「日本学」の祖です。

★ ヨーロッパに渡った作品は7千点

 シーボルトが帰国後にまとめた『ニッポン』『日本植物誌』には日本の風習、文化、地図、植物など多岐にわたる膨大な情報が収められており、同時に美しい彩色図版が多数添えられています。それらのほとんどは出島出入絵師の川原慶賀(1786─1860以降)が描いたものです。彼についてシーボルトは「日本人画家、登与助(川原本名)の確かな手腕と、日本の鮮やかな絵の具は、自然の実物の美しさに負けないであろう」(『シーボルトと日本動物誌』)と評価しています。
 川原慶賀は絵師を父に持つ長崎の町絵師で、のちに出島出入絵師として認められ、シーボルトとの運命的な出会いを果たします。シーボルトは帰国後、研究をまとめて出版することを前提に、慶賀に膨大な量の絵を描かせました。
 当時、オランダ人が持ち帰ることのできる絵は、出島出入絵師によるもののみ。慶賀はシーボルトの求めに応じ「人の一生」「職人尽くし」など、当時の様子をまるでカメラで収めるように記録していったのでした。日本に残る慶賀の絵は100点ほどしかありませんが、オランダ船に乗ってヨーロッパに渡った作品は、7千点にも及ぶといわれています。

★ 西洋画の影響、写実性の強い作風

 シーボルトは慶賀のことを「彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法を取り入れ始めていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……」(『江戸参府紀行』)と褒め称えています。
 慶賀の画風は同時期に活躍した写楽や北斎らのデフォルメアートとは対照的に、非常に西洋画の影響を受けた写実性の強い作風です。シーボルトの要求に応えるべく、慶賀が努力して身につけたものといえるでしょう。彼が残した数多くの作品のなかでも、植物画(ボタニカルアート)は単なる記録の域を超えて、美術品としても高い評価を得ています。
 なお、慶賀の繊細で可憐な植物画の数々は、長崎歴史文化博物館のサイトで鑑賞できるのご覧ください。

※詳細は2018年1月号本誌にて。
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