友好の橋 2017.12

ロシア連邦 Russian Federation

日露修好の先駆けとなった豪商・高田屋嘉兵衛
「ゴローニン事件」で危機に瀕した両国間の交渉を見事にまとめる

 ペリー率いる黒船来航から遡ること61年、1792年にロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、通商を求めました。これが日露関係史の始まりです。当時、鎖国状態にあった江戸幕府は取り合わず、12年後、長崎にやって来たレザノフも一方的に追い返しました。

★「ゴローニン事件」に巻き込まれる

 日本側の態度に怒ったレザノフの部下、フヴォストフらは択捉島や樺太に上陸して略奪行為に及んだため両国間の緊張は高まり、そんな中で「ゴローニン事件」(1811年)が起こります。千島海域の地理調査中だったゴローニンが幕吏に捕らえられ、その報復としてロシア側が偶然近くを通りかかった高田屋嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャッカに連行したのです。
 淡路島の貧しい農民の長男として生まれた高田屋嘉兵衛は、兵庫津に出て船乗りとなり、後に大阪と蝦夷地を行き交う廻船問屋として活躍。とりわけ、蝦夷地・箱館(函館)を拠点に国後島・択捉島間の航路を開拓して巨額の財を築き、函館の発展にも貢献しました。カムチャッカに連行された嘉兵衛は、持ち前の冷静沈着、豪胆な人間力で両国の争いを防ぐことに成功し、事件解決へ導いたのです。
 嘉兵衛を連行したロシア船(リコルド副艦長)は、カムチャッカに到着する前、嵐に遭遇して座礁しそうになりました。嘉兵衛は言葉の通じないロシア人たちに指示を与え、この難所を乗り切り、ロシア人水夫の信頼を得ます。カムチャッカに滞在中、リコルドと同じ部屋で生活。ロシア語を学び、日本との交渉を自分に任せるよう彼を説得しました。

★嘉兵衛への友情の念、生涯変わらず

 ゴローニンが拿捕されたのは、フヴォストフが略奪を繰り返したからであって、日本政府へ謝罪文を提出すれば、ゴローニンは帰ってくると何度も説明したのでした。リコルドの信頼を勝ち取ることができた嘉兵衛は、再び日本と交渉するために戻り、ロシア側は交渉が頓挫するようなことがあれば武力で迫る覚悟で、北の海に船を待機させていました。緊迫した状況下、嘉兵衛は日露交渉をうまくまとめ、ゴローニンが釈放されたのでした。
 「日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶにふさわしい人物がいる」
 リコルドは後年、自身の著書でこう書いています。彼が嘉兵衛に抱いた友情の念は生涯変わることがありませんでした。
 嘉兵衛は59歳で人生を全うしますが、私財を投じて地域発展に尽くしました。

※詳細は2017年12月号本誌にて。
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