友好の橋 2017.10

インド India

インパール作戦に出征した日本生まれの少女

チャンドラ・ボースの国民軍に身を投じたアシャ

 1943年11月、太平洋戦争の最中、東京で大東亜会議が開催されました。世界史上初めてアジアの指導者だけで行なわれた会議です。インド独立運動の指導者チャンドラ・ボースに対して日本政府は軍事的支援を約束。「インパール作戦」が決行されることになるのですが、このインド独立の戦いに日本生まれの一人のインド人少女が出征していました。

★17歳で入隊したが病み上がりで終戦

 彼女の名前はバラーティ・アシャ・チョードリ。アシャとはヒンディー語で「希望」という意味で、父親はボースの側近として日本に亡命、彼女は神戸で生まれました。日本名「朝子」と呼ばれて育ち、小学校を卒業後、東京に移り、昭和高等女学校(昭和女子大学)で学んでいます。戦時下は日本人と同じ配給を受け、隣組にも参加。薄いおかゆをすすり、モンペをはいて登校、千人針を縫い、家族で戦勝祈願の神社参りもしました。 
 44年3月に始まった「インパール作戦」を知ったアシャは、居ても立ってもいられず、妹ともに入隊を志願。ボースが「花のような娘たちが戦えるのか」とからかうと、「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と言い返し、結局、アシャだけが入隊を認められました。45年3月、アシャは17歳という若さで日本を旅立ち、バンコクで編成されたばかりのインド国民軍女性部隊へ入隊したのでした。
 「新しく生まれ変わりて一兵となりたまりしも心淋しき」。これはアシャが日本を出立するときに詠んだ歌です。しかし、現地ではインパールから飢餓や感染症で壊滅状態となった兵士たちが次々と戻ってきていました。また、アシャは訓練を終え少尉になった矢先、マラリアにかかってしまい、病み上がりで終戦を迎えたのでした。一方、ボースは終戦直後、台湾での飛行機事故で落命。その亡骸は日本に持ち帰られ、現在、東京都杉並区の蓮光寺に安置されています。

★ボースの遺骨をガンジス川に、が夢

 インドは47年に独立し、アシャも日本にいた家族と再会。インド人男性と結婚し2人の息子に恵まれ、いまもインドで存命です。アシャの日記がヒンディー語と日本語で出版されており、母国の独立を願い、そのために貢献したいという純粋すぎるほどの思いが綴られています。チャンドラ・ボースへの尊敬の気持ちは強く、いつか杉並に安置されているボースの遺骨をガンジス川に流すことが夢であると述べています。

※詳細は2017年10月号本誌にて。
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