友好の橋 2017.09

カナダ Canada

港町スティーブストンを彩る日系移民の歴史

差別と闘いながら本間留吉らは日系人の社会的地位向上に貢献した

カナダの西の玄関口として栄えてきたバンクーバーは「世界で最も住みやすい都市」と言われますが、昔からアジア系移民の多い街としても有名です。日本からの移民は1877年に始まり、フレーザー川で大量の鮭が取れることがわかり、さらに急増します。
 しかし、異国での開拓の道のりは決して楽なものではありませんでした。アジア系移民に対する差別がひどく、日系人は白人よりも不利な状況で仕事をさせられたのです。

★発展する日系人を警戒し選挙権剥奪

 バンクーバーの南部に位置するスティーブストンという港町に、83年、本間留吉という人物が移民してきました。他の移民者たちとは異なり、彼は武士の家の出身で、中国語も堪能なため、必然的に日系人社会のリーダーとなります。「日系漁者団体」を創設し、会長を務め、白人との値段交渉、漁業権取得、日系漁民の地位向上などに努めました。
 漁業を中心にスティーブストンの日系人社会は発展し、最先端の缶詰工場、造船所、そして語学学校、病院などの施設が整備されていくのを見て白人社会は警戒心を強め、日系人の選挙権を剥奪したのです。1900年、本間留吉は私財を投じてこの差別に対して法廷で争うも、最終判決で敗れてしまいます。
 追い打ちをかけるように、太平洋戦争が勃発すると同時にスティーブストンの日系人が所有する船約1200隻は没収され、さらに「敵性外国人」として日系人2万2千人が内陸の収容キャンプに送られていきました。彼らの75%はカナダ生まれのカナダ市民でした。戦争が終わっても、日系人に与えられた選択肢は二つ。日本に帰るか、ロッキー山脈以東に移住するか──。日系人が西海岸に戻ってくることが許されたのは、それから4年後のことでした。

★本間留吉の功績をたたえた小学校も

 同じ年、日系人に選挙権が与えられましたが、日系人への差別と闘った本間留吉自身は生きてこの日を迎えることはできませんでした。中心的な存在として政府に働きかけたのは息子の本間セイジさんです。現在、こうした日系カナダ人の歴史は、多民族多文化に対する寛容を誇りとするカナダの「汚点」という認識で、反省と共に語り継がれています。
 日系カナダ人の歴史が、いまも色濃く残っているスティーブストンには「Homma Elementary School」という、本間留吉の功績をたたえ、命名された小学校があります。

※詳細は2017年9月号本誌にて。
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