友好の橋 2017.05

ドイツ連邦共和国
Federal Republic of Germany

自らの命を顧みず患者を助けた医師・肥沼信次

終戦直後、発疹チフスの治療に奔走し自らも斃れる

旧東ドイツのポーランド国境近くにヴリーツェンという小さな町があります。おそらく日本人のほとんどが知らないこの町は、2011年の東日本大震災直後、約76万円の義援金を送ってきてくれました。学生たちが中心となり集めてくれた浄財でした。

★アインシュタインの言葉に感銘受け

 ヴリーツェン市庁舎の入り口に掲げられている銘板には、一人の日本人の功績を讃え、こう刻まれています。
 「終戦より翌1946年にかけて、この建物において日本人医師・研究者である肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)博士が、チフス患者のための病院を開いた。博士は、ヴリーツェン市の職員をはじめとする多くの支援者とともに、あまたの住民や戦争難民の命を救った。その最中、みずからもこの疫病に罹患し、命を落とした」
 肥沼信次は東京都八王子市に生まれ、アインシュタインの「誰かのために生きてこそ人生には価値がある」という言葉に感銘し、ドイツ留学を志します。東京大学で放射線医学を学んだのち、ベルリン大学で放射線研究所の研究員となり、6年後には東洋人で初めて教授になりました。しかし、時は第2次世界大戦真っただ中で、ドイツは45年5月に降伏。東ドイツを統治していたソ連軍からヴリーツェンの伝染医療センターの責任者にと要請があり、快諾します。
 当時、たくさんのドイツ難民が流れ込んできており、発疹チフスが蔓延し、センターには罹患者たちが隔離されていました。あまりの悲惨な状況のなか、肥沼は「まるで勇敢な兵士のように入って行き、身の危険も全く顧みず、最も酷い症状の患者に持ってきた貴重な薬をせっせと与え、また次々に患者を見て回るのです。こんな無私無欲の行ないを目の当たりにして、気が遠くなるような感動に打たれました」(当時、看護師をしていた女性)。

★ベルリンの壁崩壊まで表に出されず

 彼は多くの命を救いましたが、着任から約半年、発疹チフスに倒れます。享年37。最後の言葉は「桜が見たい」でした。東西冷戦のなかで肥沼の功績は表に出ることはなく、89年のベルリンの壁崩壊後、やっと公に。肥沼の実弟からヴリーツェン市に100本の桜の苗が贈られ、いまでは肥沼の願い通り、この町で桜を見ることができます。肥沼が生きた時代から70年以上が経った東日本大震災直後、町の人々が送ってくれた義援金の背景には、世代を超えて語り継がれている一人の勇気ある日本人医師の偉業があったのです。

※詳細は2017年5月号本誌にて。
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