友好の橋 2015.11

オーストリア共和国 Republic of Austria

サラエボ事件で倒れたフェルディナント皇太子の日本庭園

ウィーン屈指の観光スポット、シェーンブルン宮殿の一角にある日本庭園
サラエボ事件で倒れた〝日本好き〟のフェルディナント皇太子が造らせた

 オーストリアの首都ウィーンにあるシェーンブルン宮殿は、歴代ハプスブルク皇帝の栄華をいまに伝え、最も人気のある観光名所です。美しいバロック様式の宮殿と庭園は、世界文化遺産に登録されていますが、その一角に日本庭園があることをご存知でしょうか。

★世界周遊の途次、日本にも滞在

 第一次世界大戦勃発の引き金となった「サラエボ事件」で暗殺されたフランツ・フェルディナント、すなわちオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子が1913年に造園させたものです。
 フェルディナント皇太子は1892年から約一年間、世界周遊の旅に出ます。日本にも約1カ月滞在し、その見聞を詳細な記録に残しています(「オーストリア皇太子の日本日記」講談社学術文庫)。日記のなかで「書物を読んでは獲得し、絵画を眺めては膨らませてきた日本のイメージ」とあるように、もともと日本に深い関心を持っていたのです。
 日本滞在は、長崎上陸から始まり、熊本、下関、広島の厳島神社、さらに京都の知恩院、清水寺、西本願寺、大阪、奈良の正倉院、大津の琵琶湖の鵜飼いなどの見物を経て、東京で明治天皇に謁見。国賓としての歓迎を受け、その後、日光東照宮を訪問しています。
 親日家の皇太子でしたが、唯一、日本の急激な近代化については冷めた見方をしており、たとえば東京の近代建築を「いま日本人は民族国有の建築様式を捨て去ろうとしている。容認しがたいほどだ。そもそも日本には、大きな特徴を持つ固有の建築様式が立派にあるのではないか」と述べています。

★荒廃した庭園、日本人が再発見

 行く先々で蒐しゅうしゅう集し祖国へ持ち帰った美術品およそ一万八千点は、ウィーン民族博物館の日本部門の礎となりました。帰国後には展覧会が開かれ、ウィーン独自のジャポネズムが花開くきっかけとなったのです。布地や壁紙、ブックカバー、花瓶、家具調度など、幅広く日本のデザインが取り入れられるようになり、画家クリムトなど、絵画の分野でも大きな影響を与えたと言われています。
 オーストリアの庭師に見よう見まねで造らせた日本庭園が完成した翌年、サラエボ事件で皇太子は落命。やがてオーストリア=ハンガリー帝国も崩壊し、庭園も荒廃しました。
 1996年にここを訪れた日本人の指摘で再発見され、日本から招いた庭師らによって枯山水の日本庭園として修理復元されたのでした。

※詳細は2015年11月号本誌にて。
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